歌詞について。

 

懐かしい痛みだわ

ずっと前に忘れていた

でもあなたを見た時

時間だけ後戻りしたの

 

「幸福?」と聞かないで

嘘つくのは上手じゃない

友だちならいるけど

あんなには燃えあがれなくて

 

失った夢だけが

美しく見えるのは何故かしら

過ぎ去った優しさも今は

甘い記憶 sweet memories

 

SWEET MEMORIES / 作詞 松本隆

 

良い歌詞って言葉に手触りがある。触っていけば触っていくほど、輪郭を掴めるようになる。輪郭を元に、平面的にスケッチを拡大したら、次に立体的に深めていく、もしくは構築していく次元に入る。ここからは粗悪な歌詞では到達できない次元に入る。私は以前までは、輪郭だけをリスナーに提示して、色付けする役割を丸投げする歌詞がいい歌詞だと思っていた。(解釈を限定しない方が自由で良さそうっていう割と単純な理由で)今では全く逆で、想定させる情景を規定してしまう歌詞の方が良いと思うようになった。だって狙って万人に特定の事象や感情を想起させるには、それ相応に適切な言葉選びをする必要があるから。めちゃすごい。それに、そっちの方が一つの作品としてまとまりがいい。たくさんの解釈をして欲しいなら、それだけ作品を増やせばいいわけで。創作者としての努力を放棄してしまう態度は好きじゃない。

とはいえ、一読した瞬間に全てがわかってしまうような、歌詞が直接的すぎるものはやはり粗悪品だと思う。それは小学生でも書けるわけで。線引きをするとしたら、歌詞を一度咀嚼した上で、世界観を理解できる歌詞が良い。

 

SWEET MEMORIESを軽く真っ直ぐに解釈するならば、元恋人と再会し、美化されたほろ苦い記憶に想いを巡らす的なやつだろう。そうじゃなかったら、どこかの言葉を歪曲する事になるだろう。良歌詞は歪曲を許さない。私の態度はあまりに断定的で、これはある意味芸術を鑑賞する態度として不適切だと思うかもしれないが、少なくとも音楽(の中でもメロディに歌詞をつけるもの)においては、これでいいと思うんだけどなあ。

  

芸術は要はニュアンスの勝負なのだと思う。絵を描くにしても、音楽を作るにしても、ある程度の型が出来上がり、作品として体をなすためのバランスが取れるようになったら、ニュアンスを弄る。線を数コンマずらしたり、描きたしたり、濃くしたり。音量を数dB上下させたり、プラグインで音色を変えたり、(広い意味で)息遣いを変えたり。

 

ニュアンスで言えば、例えばSWEEET MEMORIESの歌詞は矛盾したニュアンスを持つ言葉から始まる。「懐かしい」というどこか肯定的なニュアンスを含む言葉で、「痛み」というどこか否定的なニュアンスを含む言葉を形容している。ニュアンスを巧みに利用することで、限られた音数の中で、最大限の情景描写や、(リスナーにとっては時には偽物の、あるいは本物の)記憶を呼び覚まさせることができる。それが何かは書かなくてもいいだろう。この歌詞は強い。

 

芸術において、二者を比較してどちらかを持ち上げるという評価の仕方は好ましくないというのは理解した上で、嫌いな歌詞を載せておく。って今書いたんだけど、そんなんこと言い出したらキリがないことに気づいたので、辞めておく。一つだけ挙げておくと、優里とか。歌詞が短絡的すぎるor散漫的すぎる。他の例を上げたらキリがない。辛い。

なんでこんな粗悪な歌詞ばかりが流通するようになったんだろう。大量爆速消費社会においては、訴求対象をあえてバカにして、秒速理解できる歌詞をエモい〜って言ってtiktokのBGMやmad素材として消費してもらうのが一番効率がいいんだろう。あるいは、創作者はそんな意図はまるっきりなくて、そもそも良歌詞を知らないのかもしれない。多分だけど、90年代ごろの大レーベルによる、3人以上複数人アイドルグループ大売り出し時代ごろから、歌詞のバカ化は信じられないスピードで加速していたと思う。今メインストリームで活躍する20〜30代のアーティストは比較的、そういったnot well sophisticatedな歌詞に触れた物量は絶対多くなってるはず。

 

難しいね。

 

追記: 冷笑的な態度をやめたブログのプロフィールに書いたはずなのに、なんか冷笑ちっくな文章を書いた気がする。ニュアンスや。多分違う。いや、積極的に馬鹿な人をバカにす意図を含めてこの記事を書いていたから、これはダメな文章だ。うぅ。

 

1月20日 2022年

 

言葉では情緒を解さぬ人たちが体を重ねることしか知らない