今日も何処かで凡才が「僕は今日も」を歌う

 自分の半生を曝け出す芸術を見て恐ろしくなる。その作品に対する批判は、丸ごと自分に対する批判になりうるだろう。ならなくても、ニアリーイコールと受け取ってしまうのが、自然なメンタリティだろう。それが恐ろしくないのかと思う。例えば古市憲寿の「さよなら平成くん」の主人公である平成は、著者自身のイメージとかなりオーバーラップしている。平成くんはアセクシャルとして書かれている一方で、踏み込んだ性描写も書かれている。読者からしてみれば、浮かび上がる映像の、性行為をしているキャラクターの顔は古市になることは必然だ。自分の人生を、こうも簡単にひけらかしてしまうことに対する勇気を、僕には理解することができない。

 

 最近、よくVaundyの「僕は今日も」を耳にすることがあるのだが、この作品こそ、過度に人生を反映させた作品である。作中主体(短歌用語だが、大雑把に言えば作品内の主人公を指す)は、ほとんどVaundyそのものであり、彼の実体験を元にしたであろう歌詞となっている。

 Aメロの歌詞を引用する。「母さんが言ってたんだ お前は才能があるから 「芸術家にでもなりな」と また根拠のない夢を語る 通さんが言ってたんだ お前は親不孝だから 一人で生きていきなさい また意味もわからず罵倒する」恐らくこれは実話だろう。仮に実話でなかったとしても、「これはVaundyの実話に基づいているに違いない」と思わせる歌詞である。そしてサビでは、「自分はこれからも、後世に残るような、自分の歌いたい曲を歌うよ」という旨の歌詞で、この音楽を締め括る。

 要約しよう。つまりこの曲は、かなり個人的な曲であるのだ。確かに、才能が求められる職業を志す人にとっては、共感できるのはないかと思う気持ちはわかる。しかし、この曲には、他人の共感を許す余地がほとんどない。この曲を聴いているとき、カラオケで歌っているとき、最初から最後まで、脳内にデカデカとVaundyが居座るのだ。

 そこで僕が思ったことは二つある。

 一つは、繰り返しになるが、過度な自己の露出の危うさを、なぜこの人は恐れないのだ?ということ

 二つ目は、これはもっとも私の脳内を独占することだが、なぜ人は好んでこの曲を聞くのだ?ということだ。だってこの曲は、ただVaundyの人生であるだけではないか。なぜカラオケでこの曲を歌うのだ?そのときあなたは、ただVaundyのナルシシズムを再生産するスピーカーでしかないのだ。皆はこの曲の何に共感するんだ?いや、そもそもこの曲に共感などそもそも求めていないのかもしれない。ある種のドキュメンタリー作品を見ている気分なのかもしれない。これはブレイキングダウンなのか。いや、だとしたら、カラオケで歌うのはやはりおかしいだろう。誰もブレイキングダウンを見ながら、スマホの前でシャドーボクシングはしない。

たまに自分の人生が惨めになることがある。芸術の道に憧れていた自分は過去に消え、今や生活の安定がプライオリティになっている。この曲は、この曲のナルシシズムは、どうも私を苦しめてしまう。よく人は、この感情を憧れや嫉妬だと言いたがるが、これは違う。それを遥かに上回る嫌悪感なのである。もっと言おう。これはVaundyに対する嫌悪感とは、少し違う。この曲を礼賛する凡人に対する嫌悪感である。なぜ、自分の人生の諦め、Vaundyを賞賛できてしまうのだ。Vaundyを内在化させてしまう隙間が、君たちの人生にはあるのか。それで生きていると言えるのか。Audienceの人生でいいのか?せっかく生きているのあれば、Playerじゃないとつまらないと思わないのか?

 

 まあ、こんなことを考えていても、今日もカラオケボックスから廉価版「僕は今日も」の音漏れが聞こえてくるのだ。